西野こういち ほっとかれへん! 30年後の日本人も幸せで居られる社会を。

捲土重来

2014.12.27

解散後1か月の戦いが終わりました。結果が出てから2週間、各所への挨拶回りと事務的な残務処理に追われ、落ち着いてものを書く間もありませんでした。まだ挨拶廻りにまわらなければならないところも多数残っておりますが、歳末が近づいてきたのでここで選挙戦を振り返ってみたいと思います。

10月くらいから、選挙の気配を感じていました。スキャンダルで国会が回らない中、すべてをリセットするには解散しかないと思っていました。周囲には「まさかこの状況で解散なんてしないだろう」と言いながら、地元ではこっそり選挙の準備を進めていました。

我が党はネット戦略を重視し、ネット右派層をターゲットにしたかのような報道や論評が各種出ていますが、少なくとも私自身の選挙においてはそのような戦術はとりませんでしたし、党本部にしても資金難故にテレビCMや大々的な新聞広告は打てない、ということはあっても、ことさらネット頼りの選挙をした、とは聞いていません。私自身、選挙では94回の個人演説会を開催し、約7000名を動員しました。石原慎太郎先生や平沼赳夫先生、園田博之先生、中山恭子先生ら党幹部に応援に入って頂いた時も、街頭演説ではなく個人演説会に来ていただきました。(藤井先生だけは平日昼間のみ、ということでしたので街頭演説を行いました)。昔ながらのどぶ板選挙です。選挙カーは個人分と政党分2台を常に回していましたが、私自身が乗ることは最終盤を除いてほとんどありませんでした。

選挙戦で訴えたのは、「今回先送りされたのは、消費税増税だけではなく、次世代のために今やらなければならない改革だ」ということです。サンゴ窃盗団やエボラなどの感染症、北朝鮮外交や憲法改正など、今取り組まねばならない問題の解決が、すくなくとも選挙のために1か月遅れました。さらには、大阪、特に私の選挙区においては相手陣営が府議時代に都構想反対派の急先鋒であり、また、国旗国歌条例や憲法改正の早期実現を求める意見書に反対をしてきた候補であり、その怒りを選挙戦の原動力にしていました。党自体の認知度が低い中、政党名ではなく個人名で戦う選挙でした。

結果を見れば、惨敗、と言わざるを得ないものですが、それでも後援会の皆様、ボランティアの皆様、スタッフの皆様に支えていただき、最後まで戦い抜くこと、訴え続けることができました。

私も我が党も残念な結果となり、今後の国政の行く末が心配ではありますが、まずは捲土重来を期して私自身地元に籠り、ひたすらどぶ板の活動を行うつもりです。我が党結党以来の4か月、やってきたこと、訴えてきたことは決して間違っているとは思いません。まだまだ党はこれから大きくなりますし、大きくしなければなりません。それが日本のため、国民の皆様のためだと信じ、活動を続けてまいります。今後もご指導ご鞭撻賜りますよう、お願い申し上げます。